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広島高等裁判所 平成元年(ネ)379号 判決

甲事件控訴人(乙事件申立人、丙事件附帯被控訴人)

(以下「控訴人」という。)

右代表者法務大臣

三ケ月章

右訴訟代理人弁護士

河原和郎

右指定代理人

富岡淳

外三名

甲事件被控訴人(乙事件被申立人、丙事件附帯控訴人)

谷岡誠子(以下「被控訴人誠子」という。)

甲事件被控訴人(乙事件被申立人、丙事件附帯控訴人)兼右谷岡誠子法定代理人

谷岡英幸(以下「被控訴人英幸」という。)

甲事件被控訴人(乙事件被申立人、丙事件附帯控訴人)兼右谷岡誠子法定代理人

谷岡克恵(以下「被控訴人克恵」という。)

右三名訴訟代理人弁護士

外山佳昌

小笠豊

山田延廣

主文

一  控訴人の被控訴人誠子に対する控訴に基づき原判決主文

第一、三項を次のとおり変更する。

1  控訴人は、被控訴人誠子に対し、金二〇五九万二〇三八円及び内金一八七九万二〇三八円に対する昭和五三年一二月六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  被控訴人誠子の控訴人に対するその余の請求を棄却する。

二  控訴人の被控訴人英幸、同克恵に対する控訴及び被控訴人らの附帯控訴をいずれも棄却する。

三1  被控訴人誠子は、控訴人に対し、金四六七六万〇三八二円及びこれに対する平成元年一一月一六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  控訴人のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は第一、二審を通じ、控訴人と被控訴人誠子との間では、右被控訴人に生じた費用を八分し、その一を控訴人の負担とし、控訴人と被控訴人英幸、同克恵との間では、右被控訴人らに生じた費用を五分し、その一を控訴人の負担とし、その余は各自の負担とする。

五  この判決は第一項1に限り仮に執行することができる。

事実

第一  申立

一  控訴人

(控訴の趣旨―甲事件)

1  原判決中、控訴人敗訴部分を取り消す。

2  被控訴人らの請求を棄却する。

3  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

(申立の趣旨―乙事件)

1  被控訴人らは、それぞれ、控訴人に対し、被控訴人誠子において金七七六四万八六〇一円及びこれに対する平成元年一一月一六日から完済まで年五分の割合による金員を、被控訴人英幸、同克恵において各一六五万五三〇六円及びこれに対する平成元年一一月一六日から完済まで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

2  仮執行宣言

(附帯控訴の趣旨〔丙事件〕に対する答弁)

1  本件附帯控訴を棄却する。

2  附帯控訴費用は被控訴人らの負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱宣言

二  被控訴人ら

(控訴の趣旨〔甲事件〕に対する答弁)

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

(乙事件の申立の趣旨に対する答弁)

控訴人の本件申立を棄却する。

(附帯控訴の趣旨―丙事件〔当審において被控訴人誠子の請求を拡張〕)

1  原判決を次のとおり変更する。

2  控訴人は、被控訴人誠子に対し、金一億七六〇〇万円及びこれに対する昭和五三年一二月六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  控訴人は、被控訴人英幸、同克恵に対し、各五五〇万円及びこれに対する昭和五三年一二月六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

4  附帯控訴費用は控訴人の負担とする。

5  仮執行宣言

第二  当事者の主張(甲、丙事件)

以下に、付加、訂正、抹消する以外は原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

一  原判決の補正

1  原判決三枚目表末行冒頭の「(」の次に「昭和一九年三月五日生、」を加え、同裏二行目の「経営し」を「開設し」と改め、同三行目の「いる。」の次に「昭和五三年八月当時、小児科は医長荒光義美、医師苗村政子ほか二名の医師が、眼科は医師衣笠治兵衛が担当していた。」を加え、同九行目の「の未熟児」を「、身長三六センチメートル、頭囲二六センチメートル、胸囲二三センチメートルの未熟児(極小未熟児)」と、同七枚目表九、一〇行目の「(昭和五一年二月、同学会総会において答申)」を「(昭和五〇年二月同学会理事会に対して答申後、昭和五二年九月公表、以下「昭和五〇年新生児委員会答申」という。)」と、それぞれ改め、同九枚目裏八行目冒頭の「省研究班報告」の次に「「未熟児網膜症の診断及び治療基準に関する研究」」を、同一一枚目裏一〇行目の「指針」の前に「昭和五〇年新生児委員会答申に基づく」を、それぞれ加え、同一二枚目裏二行目の「担当した医師」を「担当した小児科及び眼科の医師」と改める。

2  同一五枚目裏二行目冒頭から同九行目末尾までを次のとおり改める。

「被控訴人誠子は、両眼失明により生涯にわたり労働能力を一〇〇パーセント喪失したものであるところ、現在一一歳で、その新ホフマン係数は20.441であり、女子全年齢平均年収額は二四四万〇三〇〇円であるから、逸失利益の現価は次式のとおり四九八八万二一七二円となる。

2,440,300×20.441

=49,882,172」

3  同一六枚目表五行目冒頭から同裏七行目末尾までを次のとおり改める。

「被控訴人誠子は、両眼失明により、出生以来現在まで一二年間母親の付添看護を必要とし、今後も、女子の平均余命八一歳までの七〇年間(その新ホフマン係数は29.966)常時付添看護を必要とするから、一日の看護費用を六〇〇〇円とみて、中間利息を控除した看護費用の総額は次式のとおり九一九〇万五五〇〇円となる。

(6,000×365×12)+(6,000×365×29.966)=91,905,500  」

4  同一六枚目裏九、一〇行目を次のとおり改める。

「(1)ないし(3)の合計額一億六一七八万七六七二円の内金一億六〇〇〇万円を本訴において請求する。」

5  同一七枚目表三行目の「六〇〇万円」を「一六〇〇万円」と、同一八枚目表六、七行目の「六六〇〇万円及び内六〇〇〇万円に対する」を「一億七六〇〇万円及びこれに対する」と、同一〇行目の「各内五〇〇万円に対する」を「これに対する」と、それぞれ改める。

6  同一八枚目裏三行目の「認める。」の次に「呉病院は、未熟児の養育医療機関の指定を受けて昭和三三年三月一〇日から未熟児の診療に当たっている。」を加え、同一九枚目裏三行目の「児」を「新生児」と、同二二枚目表一行目の「四〇パーセント以上の」を「四〇パーセントを超える」と、それぞれ改め、同二六枚目裏一〇行目の「八月一八日」の次に「午後四時二三分」を、同末行の「在胎二九週、」の次に「身長三六センチメートル、頭囲二六センチメートル、胸囲二三センチメートル、」を、同二七枚目表一行目の「生し、」の次に「体温32.4度、一分間に五〇ないし六〇回の不規則呼吸がみられ、心拍数は一一四回で」を、それぞれ加え、同一、二行目の「八月一九日、呉病院に入院し」を「出生直後から保育器に収容され、出生二一時間後の八月一九日午後一時三〇分転送されて呉病院に入院し」と改める。

二  控訴人の主張

1  被控訴人誠子の失明に対する呉病院の担当医の注意義務違反の存否

以下にみるとおり、呉病院の担当医には医師としての注意義務違反はなく、控訴人には被控訴人誠子の失明に対する賠償責任は認められないから、これを肯定した原判決は不当である。

(1) 医療水準としての未熟児に対する眼底検査義務の不存在

被控訴人誠子の出生・保育時点である昭和五三年八月当時、未熟児網膜症(以下「本症」という。)の予防法・治療法としての未熟児に対する眼底検査の施行はいまだ臨床医学における一般的医療水準に達しておらず、呉病院の担当医が早期に被控訴人誠子の眼底検査をしなかったとしても、医師としての業務上の注意義務を怠ったとはいえず、控訴人に賠償責任はない。

すなわち、未熟児に対する眼底検査についての知識の普及は、その治療法とされる光凝固療法の知識の普及とほぼ軌を一にしており、右検査は、本症の臨床経過と分類ならびに予後を正確に判断してなされる必要があるところ、当時、一般の病院では新生児の診療経験を持つ眼科医自体が少なく、本症の千変万化な病態のうち活動期3期の病変につき自然治癒の可否を含めた充分な知識経験を積んだ医師は極めて少なく、被控訴人誠子を診療した呉病院の眼科医である衣笠医師も本件まで極小未熟児についての診療経験はなく、未熟な眼底の正常、異常について正確な知識を持ち合わせておらず、また、呉病院では小児科医の判断で出生後約三週間前後の未熟児につき眼科外来暗室内で衣笠医師により眼底検査を実施することにしていたものの、一般状態が悪い未熟児については検査依頼時期が遅れがちなうえ、小児科の荒光医師も、未熟児をその診療時までに約四〇〇名、呉病院だけでも約一〇〇人もの保育の経験を有したものの、本件以前には光凝固療法や冷凍凝固法を必要とする症例や失明例に遭遇したことはなかった。

(2) 未熟児網膜症に対する確立された有効な予防法ないし治療法の不存在

眼底検査は、本症の有効な予防法ないし治療法と結びついて初めてその意義を有するところ、被控訴人誠子の出生・保育時点である昭和五三年八月当時、本症に対する有効な予防法ないし治療法は確立されていなかったから、呉病院の担当医が適切な時期に眼底検査をしなかったとしても、右検査の不実施と被控訴人誠子の失明との間に因果関係は認められず、控訴人が賠償責任を負うものではない。

すなわち、四九年度研究班報告は、治療の適応を判断する一応の基準にすぎず、その内容にも記載されているとおり、本症の治療に未解決の問題がなお多く残されており、右時点において決定的な治療基準を示すことは極めて困難なために、今後の研究の進展により修正する余地のあることを前提とした報告として公表されており、昭和五八年には右報告による治療基準が改訂されている。

(3) 眼底検査の実施可能性の不存在

被控訴人誠子に対して本症の治療と結びついた眼底検査の実施可能性はなかったから、眼底検査の不実施と被控訴人誠子の失明との因果関係は認められない。

すなわち、被控訴人誠子は昭和五三年八月一八日に重症仮死分娩により出生した極小未熟児であり、生後三〇分後にようやく啼泣し、その後も不規則呼吸や陥没呼吸等の呼吸障害が認められるなど全身状態が良くなく、酸素投与を一旦中止した九月二二日ころには既にウィルソン・ミキティ症候群に罹患していたうえ、当時、呉病院では、眼科医である衣笠医師が前記(1)のとおり眼科外来暗室で眼底検査を実施していたものの、極小未熟児の診療経験はなく、倒像鏡(ボンノスコープ)はあったが、光凝固や冷凍凝固の設備もなかったから、本症を自院で診断・治療することは困難であった。また、呉病院の総合病院としての立場から近傍の広島大学付属病院や広島県立病院で本症の診断・治療経験を有する医師の往診を求めることもできず、仮に、眼底検査が実施できて、被控訴人誠子の眼底に病変を認めたとしても、その治療のためには極小未熟児の保育のための新生児集中医療設備のクベースが空くのを待った上で相当の距離を転送する必要があり、転院や頻回の搬送のための負荷は極小未熟児で全身状態の悪い被控訴人誠子の生命にとって極めて危険であったから、転院の実現可能性もなかったというべきである。

2  被控訴人らの損害について

仮に、控訴人に被控訴人誠子の両眼失明に対する賠償責任が認められるとしても被控訴人らに対する損害額の算定にあたっては以下の事情が斟酌されるべきである。

すなわち、極小未熟児は体重が少なければ少ないほど、また、在胎週数が短ければ短いほど脳性麻痺の発生率と重症度も高いところ、被控訴人誠子は在胎週数二九週の極小未熟児で重症仮死分娩により出生し、もともと酸素療法によらなければ、無酸素症による頭蓋内出血や中枢神経障害による脳性麻痺を起こしていた可能性もあるうえ、本症に対する治療法とされる光凝固法は未熟な網膜組織を破壊するもので、追試による治験的な裏付けがない緊急避難的な対症療法にすぎず、右療法を開発・推進した先駆的医師である永田誠医師自身が昭和五六年一二月のワシントンでの国際会議で従前の凝固部位についての見解を改めていることなどからしても、これを実施すれば必ず失明を防止しうるほどの有効な確立した治療法とは到底いいがたく、また、光凝固療法はⅡ型網膜症には有効でないとの臨床報告もあるところ、被控訴人誠子は極小未熟児で右Ⅱ型である可能性も高かったものであるから、これらの不確定要素を斟酌すべきである。

3  被控訴人らの損害と公的給付の控除について(当審における新主張)

(1) 被控訴人らは、被控訴人誠子が本症により両眼を失明したため、特別児童扶養手当等の支給に関する法律(以下「特別児童扶養手当法」という。)一八条に基づく障害児福祉手当の、同法四条に基づく特別児童扶養手当の各支給を受けており、その受給金額は平成五年一月六日現在で障害児福祉手当が合計九五万七八二〇円、同月一一日現在で特別児童扶養手当が合計六二一万六五八〇円であり、また、平成五年一月における各年金額は障害児福祉手当が月額一万三一八〇円、特別児童扶養手当が月額四万六三九〇円である。なお、被控訴人誠子と同一の障害者が二〇歳以上であれば特別障害者として特別児童扶養手当法二六条の三による特別障害者手当(平成五年一月一日現在で月額二万四二三〇円)、国民年金法三三条の障害者基礎年金(障害等級一級が平成五年一月一日現在で年額九〇万六六〇〇円)が支給されることになっている。

(2) 右法律は、昭和三九年七月に重度精神薄弱児の父母その他養育者に特別の手当を支給する趣旨で成立した重度精神薄弱児扶養手当法を昭和四九年に改正のうえ名称変更し、身体に重度の障害を有する児童(国民年金法一級、身体障害者福祉法一級、二級)及び昭和五〇年に重度の精神薄弱と重度の身体障害が重複している者の監護者にも手当を支給することとして現在に至っているものであり、特別児童扶養手当は、二〇歳未満の障害児の父若しくは母が障害児を監護するとき等にその父若しくは母又は養育者に対して支給され、その費用は全額が国庫負担とされており、また、障害児福祉手当は在宅の重度障害者(二〇歳未満)に対し、その障害による精神的、物質的な特別の負担軽減の一助として日常生活において常時の介護を必要とする者に支給され、その八割を国が、その二割が都道府県、市又は福祉事務所を設置する町村が負担することとなっている。したがって、特別児童扶養手当、障害児福祉手当等の公的給付はいずれも障害児に対する損失補償ないし生活保障の目的で給付されるものである。

(3) 被控訴人誠子に対する介護費用は同人に対する介護に際し、通常出捐されると解される費用の限度内で填補されるべきところ、被控訴人英幸に対する特別児童扶養手当、被控訴人誠子に対する障害児福祉手当は右のとおりいずれも障害児に対する損失補償ないし生活保障の目的で給付されるもので介護費用とその趣旨を同じくするものであるうえ、特別児童扶養手当は全額、障害児福祉手当はその八割が国の負担(障害児福祉手当の残余の二割は都道府県、市又は福祉事務所を設置する町村の負担)とされ、その給付の原資のほとんどを国が負担していることから、右公的給付を右被控訴人誠子の損害額から控除しなければ、同被控訴人は介護費用を二重に取得する反面、控訴人である国は二重に介護費用等を負担することとなり、不合理である。

(4) したがって、被控訴人らの損害額から右公的給付額を控除すべきである。

三  被控訴人らの主張

1  被控訴人誠子の両眼失明に対する控訴人の賠償責任について

以下にみるとおり、被控訴人誠子の出生・保育時点である昭和五三年八月当時、早期の眼底検査及び適期に光凝固・冷凍凝固法による治療を実施することは医療水準として確立しており、光凝固・冷凍凝固法が全く確実な根本的治療法とはいえなくとも有効な治療法であることに変わりはなく、呉病院の担当医が適期に眼底検査を実施せず被控訴人誠子を本症に罹患させて両眼失明させたものであるから、控訴人は右失明の結果に対して賠償責任を負うべきである。

(1) 未熟児に対する眼底検査義務

眼底検査は、本症に対し光凝固法・冷凍凝固法を適用してその進行をくい止め、これによる失明を防ぐため、その早期発見のみならず、本症の発生の有無・その実態を把握して酸素療法の施行の継続の要否・適用濃度の適否という眼底の変化に応じた酸素管理に役立てることに大きな意義があり、四九年度研究班報告においてもいわゆる低出生体重児に対して早期からの定期的かつ継続的な眼底検査の必要性が認められており、遅くとも昭和五〇年ころには、呉病院程度の一定規模を有する病院においては、定期的な眼底検査を行うことが一般的に定着し医療水準化していたというべきである。この場合における医療水準の確立の有無は、眼科医の半数以上が実際に眼底検査を実施できたか否かによるのではなく、多くの眼科医・小児科医が本症の発症のおそれのある未熟児に対して、早期の眼底検査と適期に光凝固・冷凍凝固法による治療が必要であるとの知識を有しており、その診断・治療基準に従った適切な診断・治療が可能であり、かつ、そのような治療基準に従った行動が期待される状態になれば、仮に眼底検査を自らは実施できない眼科医が多くあっても医療水準としては確立したと判断すべきものであるところ、本件では、呉病院の小児科の担当医は被控訴人誠子のような未熟児については本症が発症するおそれがあり、早期に眼底検査をする必要があるとの知識を有しており、その診断・治療経験が豊富で転送したこともある木村亘医師に往診依頼や転送の打診をすることが可能にもかかわらずこれを怠ったものである。

なお、右四九年度研究班報告は昭和五八年に至って改定されているが、右改定の内容は、①検査基準として従前用いないとしていた強膜圧迫子を用いることとしたこと、②Ⅰ型の1期の定義を網膜内血管新生期として明確化したこと、③光凝固・冷凍療法の実施時期を明確化するためⅠ型の3期を初期・中期・後期と分類したこと、④Ⅱ型の確定診断のための基準を明確化したこと、⑤Ⅰ型・Ⅱ型の混合型を中間型と名称を改めたことなどで、眼底検査の有用性と早期治療実施の必要性についての本質的部分に変更はないから、診断基準が多少変更したとしても医療水準化の確立時期の判断の妨げとはならない。

(2) 光凝固法・冷凍凝固法の有効性

光凝固法は、全能でないが、従来、的確な治療法を欠いていた本症の治療に大きな光明をもたらしたもので、全身管理(酸素管理を含む)によっても進行をくい止めることの出来ない本症、特にⅠ型3期の中期以降及び2期(並びに混合型)については冷凍凝固法とともに有効な治療法であって、四九年度研究班報告はその有効性を前提として早期からの定期的かつ継続的な眼底検査の必要性を認めていたものであって、少なくとも、右四九年度研究班報告により確立した治療方法として認められていたものである。このことは、光凝固法を直接実施した永田誠、馬場一雄らにより有効との臨床報告もなされており、その後に公表された批判的な各種の医学文献においても光凝固法の効用自体を全面的に否定するものはないといってよく、諸外国とりわけアメリカにおいては本症の発生そのものを防止する熱意が高いため本症に罹患した後の治療法である光凝固法は一般的な治療法としては評価されていないが、同種の冷凍凝固法は治療法として評価されており、判例(最高裁判所昭和六〇年三月二六日第三小法廷判決・民集三九巻二号一二四頁、同平成四年四月七日第三小法廷判決各参照)上も右四九年度研究班報告に照らして本症に関する医療水準を判断するのが確定した取扱いである。

(3) 被控訴人誠子に対する眼底検査の実施可能性

被控訴人誠子の出生・保育時点である昭和五三年八月当時はもちろん現在においても一五〇〇グラム以下の低出生体重児については生後三週間以降、定期的な眼底検査が必要であり、本症の発症を認めたら、隔日又は毎日眼底検査を実施し、適期に光凝固・冷凍凝固を実施すべきであり、自院でこれを実施できなければそれが可能な医師、病院に転送もしくは往診依頼すべきことは確立した診断治療基準というべきである。

被控訴人誠子は、その診療録上も出生後二週間を経過した昭和五三年九月一日ころから同年一〇月六日ころまでの一か月以上もの期間は未熟児にしばしば見られる不規則呼吸や軽度の陥没呼吸、無呼吸発作があったものの全身状態は良好であり、眼底検査は可能であった。ところが、呉病院の担当医は眼底検査の早期実施の重要性を認識せず、被控訴人誠子に対し格別の検査も治療もせずに放置し、一〇月七日の全身状態の多少の悪化でウィルソン・ミキティ症候群への罹患を疑い、一〇月二七日にその旨診断したにすぎないから、仮に被控訴人誠子が控訴人の主張どおりウィルソン・ミキティ症候群に罹患していたとしても、そのことが眼底検査の不実施を正当化する理由とならないことは明白である。

また、原審における鑑定人西村和彦の証言により眼底検査を実施すべきとされた昭和五三年九月一三日から同月一九日ころまでの間、被控訴人誠子は未熟児室の保育器内に収容されていたが、保育器に入れたままでフードをはずさず病室にカーテンを引き電気を消す程度で眼底検査を実施することは十分可能であり、また、当時は、患児の全身状態も良かったから保育器のフードを短時間外して眼底検査を実施することも可能であった。

にもかかわらず、控訴人が、眼底検査は本症の活動期3期の病変につき充分な知識経験を積んだ眼科医が暗室において実施されることが必要であるのに呉病院の眼科医である衣笠医師は被控訴人誠子の出生・保育時点である昭和五三年八月当時、極小未熟児の診療経験がなかったうえ、眼科外来で受診させることとし、未熟児室で診療する体制はとられておらず、未熟児室には暗室、暗幕もなく、保育器のフードの透明度も良くなくそのままでは見にくいし、人工呼吸器を付けなければ検査できなかったなどと検査・治療の設備、技術がなかったことをことさら強調するのは、呉病院の担当医に本症に対する十分な認識と熱意が不足していたことと同病院の診療体制の不備を如実に物語るものである。

2  被控訴人らの損害算定についての斟酌事由について

被控訴人らは、被控訴人誠子が両眼を失明し、終生、労働能力を一〇〇パーセント喪失し、生涯、付添看護を受けざるを得ないため、その損害の賠償を求めるものであり、呉病院の担当医が光凝固法の適期を逸したことと失明との間に因果関係があることも明らかであるから、一般的には、未熟児網膜症患者に知能障害の合併頻度が高いと認められるとしても、被控訴人らは、被控訴人誠子の知能障害を理由に損害賠償を求めているわけではないから、控訴人主張の各事情を損害額の算定に当たって斟酌すべきものではない。

3  被控訴人らの損害からの公的給付の控除の可否について

特別児童扶養手当法は精神又は身体に障害を有する児童について特別児童扶養手当を、精神又は身体に重度の障害を有する児童に障害児福祉手当を支給してこれらの者の福祉の増進を図ることを目的とするから右各給付は損害の填補の性質を有しておらず、また、代位の規定も設けられていないから被控訴人らの損害から右各給付を損益相殺すべきものではない。

第三  乙事件の申立の理由と認否

一  控訴人

1  被控訴人らは、平成元年一一月一五日に言い渡された仮執行宣言付原判決に基づき、同日広島地方裁判所執行官にその執行を委任し、控訴人の機関である広島中央郵便局(広島市中区国泰寺一丁目所在)において、控訴人の支配、管理にかかる現金を差押え、被控訴人誠子において金七七六四万八六〇一円(元本五一九四万五二七三円、遅延損害金二五六九万一二八二円、執行準備費用四六円、執行実施費用一万二〇〇〇円の合計)、被控訴人英幸、同克恵において各金一六五万五三〇六円(元本一一〇万円、遅延損害金五四万七二六〇円、執行準備費用四六円、執行実施費用八〇〇〇円の合計)の取立を了した。

2  よって、控訴人は、本案判決が変更される場合には、民事訴訟法一九八条二項に基づき被控訴人らに対し、仮執行宣言付原判決により執行された前項の各金員及びこれらに対する仮執行日の翌日である平成元年一一月一六日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  被控訴人ら

申立の理由1の事実は認める。

第四  証拠関係〈省略〉

理由

第一被控訴人らの本訴請求(甲、丙事件)について

一争いのない事実、呉病院における診療体制と診療経過等、本症について

この点についての判断は、以下に付加、訂正、削除する以外は原判決の理由説示(同三七枚目表五行目から同五九枚目表末行まで)と同一であるから、これを引用する(また、双方から証拠として提出された医学文献・記事を公刊順に並べたものを別紙目録として判決に添付し、以下において「文献1」のように文献を右目録の番号により引用する。)。

1  原判決三七枚目表六行目の「失明)」の次に「並びに同6(一)のうち、被控訴人ら主張の医療契約が締結された事実」を、同九行目の「各証言」の次に「に弁論の全趣旨」を、同裏一行目の「当時、」の次に「呉病院の小児科病棟の未熟児室には専属の看護婦一四名が勤務し、保育器は八台あり、保育器使用中は室温を毎日三回定時(午前零時三〇分、八時三〇分、午後四時三〇分ころ)に計測し、未熟児室の室温も備付機器により二〇ないし二七度に調節されていたが、」を、同四行目の「担当」の次に「(荒光医師は中村医師と、苗村医師は平木医師とそれぞれ一緒に同一診療部門を担当)」を、それぞれ加え、同裏七行目の次に改行のうえ次のとおり加える。

「荒光医師は昭和三五年に広島大学医学部を卒業し、翌三六年五月医師の国家試験に合格後、同大学医学部小児科教室に医局員として入局し、昭和三九年四月から二年間、国立大竹病院で勤務して大学に戻り、昭和四五年五月一日から呉病院の小児科医長として勤務する医師であり、また、苗村医師は昭和四五年一月に広島大学医学部を卒業し、同年一〇月医師の国家試験に合格後、同年一二月一日から昭和四六年九月三〇日まで広島大学医学部小児科で研修し、昭和四六年一〇月一日から厚生連尾道総合病院に勤務し、さらに昭和四七年四月一日から呉病院小児科に勤務する医師であった。

なお、呉病院は、未熟児の養育医療機関(母子保健法二〇条四項、五項、附則二条参照)の指定を受けて昭和三三年三月ころから未熟児の診療に当たる総合病院(医療法四条一項、二二条参照)である。」

2  同三七枚目裏八行目の「眼科医」の次に「(衣笠治兵衛、昭和三四年ころから同病院に勤務)」を、同九行目の「患者」の次に「(一日当たりの当時における患者の平均は外来患者約八四名、入院患者約二〇名)」を、それぞれ加える。

3  同三八枚目裏三行目の次に改行のうえ「入院以後の被控訴人誠子の診療経過のうち、主たるものは以下のとおりであり、酸素濃度、流量を含む保育条件や栄養投与の内容の詳細は別表記載のとおりである。」を、同七行目の「度。」の次に「心拍数一〇二ないし一五〇、呼吸数二〇ないし五〇。」を、それぞれ加え、同八行目の「三一ないし三二パーセント(流量毎分五ないし六)を「三一ないし三五パーセント(流量毎分三ないし五)と改める。

4  同三九枚目表一行目の「度。」の次に「心拍数一一八ないし一三二、呼吸数二八ないし六二。」を加え、同三行目の「五ないし六」を、「四・五ないし六」と、同五行目、同裏三行目、一〇行目の「コートシロンZ」を「コートロシンZ」と、それぞれ改め、同三九枚目表一〇行目の「度。」の次に「心拍数一三〇、呼吸数二六ないし四〇。」を、同四三枚目裏三行目の「二五日」の前に「酸素中止後の」を、同四行目の「た」の次に「ものの、看護婦からは右指示に対する具体的な回答もないまま、日時が経過した」を、それぞれ加え、同四五枚目表末行の「分三投与」を「分散投与」と、同四六枚目裏七行目の「九三日目」を「九五日目」と、それぞれ改める。

5  同四八枚目裏七行目の「〈書証番号略〉」の次に「〈書証番号略〉」を加え、同四九枚目裏一行目の「〈書証番号略〉」を削除し、同七、八行目の「〈書証番号略〉」を「〈書証番号略〉」と改め、同五〇枚目表一行目の「〈書証番号略〉」の次に「〈書証番号略〉」を加え、同三、四行目の「〈書証番号略〉」を「〈書証番号略〉」と、同五行目の「〈書証番号略〉、証人苗村政子」を「〈書証番号略〉、原審における証人苗村政子」と、同六行目の「同西村和彦の各証言」を「同西村和彦の各証言及び当審における証人山本節、同中村肇の各証言(いずれも後記認定に反する部分を除く)に弁論の全趣旨」と、それぞれ改める。

6  同五〇枚目表八行目冒頭から同裏末行までを次のとおり改める。

「1 本症の概要と分類等

(1) 本症は、一九四二年(昭和一七年)に米国のテリーが早産児の両眼の水晶体後方に生じた不透明な膜状物を先天性疾患と考えてRetrolental Fi-broplasia(略称はRLF)と命名して以来、後記2、3にみるとおり、多数の学者により研究、実験が行われてきたものであるが、一九四〇年代後半、未熟児の看護保育技術、特に閉鎖式保育器の発達とともに米国において本症により失明する患者が急増して社会問題化し、一九四九年(昭和二四年)にオーエンス(米国)は本症が後天的疾患であることを明らかにしたうえ、その臨床経過に対応して活動期、寛解期(回復期)、瘢痕期の三期を大別し、さらに活動期を1期(血管期)、2期(網膜期)、3期(初期増殖期)、4期(中等度増殖期)、5期(高度増殖期)に、瘢痕期を一度(軽度の変形)、二度(乳頭変形、牽引乳頭)、三度(網膜皺襞形成)、四度(不完全水晶体後部組織塊)及び五度(完全水晶体後部組織塊)に分類し、一九五二年(昭和二七年)にソースビーがRLFは瘢痕期の終末像のみを示す言葉であり、その臨床経過全体を表現する用語としてはRetinopathy of prematurity(略称はROP)の方がより適切な名称として提唱し、わが国では、植村恭夫(慶大眼科、後に国立小児病院眼科)がこれを紹介し、一般的には、未熟児網膜症と呼ばれるようになった。

(2) 本症は、未熟児、特に生下時体重一五〇〇グラム以下、在胎週数三二週以下の極小未熟児に多く発生する網膜の未熟性を素因とし網膜新生血管の異常増殖による網膜剥離のため、場合により失明ないし強度の視力障害に至る疾患とされるが、後記のとおり酸素投与を全く受けていない未熟児や成熟児にも本症の発生例があるとの指摘もあることからその発生機序については現在でも完全には解明されておらず、右のとおり網膜の未熟性を素因として酸素を重要な誘因とする疾患と考えられている。

2 本症に関する諸外国(特に米国)の研究の歴史

(1) 本症の原因については、一九五一年(昭和二六年)、オーストラリアのキャンベルが酸素投与法の異なる未熟児間の本症の発生率の対比から酸素投与にあると推論して酸素過剰説を主張し、米国のパッツやキンゼイらの比較対照試験(コントロール・スタディ)やアシュトンの動物実験などによりこれが裏付けされる結果となったため、一九五四年(昭和二九年)には、米国眼科耳鼻咽喉科学会のシンポジウムにおいて、未熟児に対するルーチンの酸素投与を禁止する、チアノーゼあるいは呼吸障害がある時にのみ酸素を使用する、呼吸障害がとれれば直ちに酸素療法を中止するようにとの勧告がなされた。

(2) さらに、一九五六年(昭和三一年)、米国小児科学会胎児新生児委員会は、酸素は緊急時を除き医師の処方により投与する。ルーチンに投与しないこと、酸素投与は症状改善のために必要な最低限にし、その濃度は四〇パーセントを超えないこと、投与の適応は、全身性チアノーゼと呼吸障害であり、適応がなくなればできるだけ早期に投与を中止する旨の未熟児の酸素療法に関する勧告をしたため、その後、未熟児保育に際して酸素の使用が制限されるに至り、一九五〇年代後半には本症の発生が激減した。

(3) ところが、一九六〇年(昭和三五年)、米国のアベリー、オッペンハイマーらは特発性呼吸窮迫症候群(略称はIRDS)に罹患した児の死亡率を一九四四年から四八年までの酸素自由使用時代と一九五四年以降の酸素制限時代とを対比したところ後者の死亡率が高いことから本症の発生頻度が少なくなった代わりにIRDSで死亡したり、脳性麻痺となる新生児の頻度が高いと報告し、さらに、一九六三年(昭和三八年)、米国のマクドナルドが極小未熟児の調査により、RLFの発生率と脳性麻痺の発生率には逆の関係があり、酸素投与期間の長い者にはRLFが多いが、脳性麻痺が少ないと報告したため、以後、従来の酸素投与方法に反省が加えられ、呼吸障害児には高濃度の酸素投与が行われ、本症の発生が再び社会問題化するようになった。

(4) 一九六二年(昭和三七年)、英国のウォーリーとガードナーは、適正な酸素濃度を設定する基準として、まず、チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、その後徐々に濃度を下げて、再びチアノーゼが現れる時の濃度を調査し、その濃度の四分の一だけ高濃度にして酸素供給量を維持する方法(ウォーリー・ガードナー法)を提唱した。

(5) ところが、一九六〇年代後半になり血液ガス分析装置による動脈血酸素分圧(PaO2)の測定法による方が保育器内の環境酸素濃度の計測によるよりも正確との研究報告がなされ、特にIRDSに罹患している新生児については時には一〇〇パーセントの酸素投与が必要との指摘もあり、酸素投与の適量は環境酸素濃度ではなく、網膜血管中の酸素分圧を基準にすべきであると考えられるようになり、一九六八年(昭和四三年)、米国カリフォルニア州衛生局は、高濃度酸素投与はPaO2の測定によりモニターすべきとの立場を打ち出し、一九七一年(昭和四六年)、米国小児科学会胎児新生児委員会も、PaO2は一〇〇mmHgを超えることなく、六〇ないし八〇mmHgに保つべきで、右血液ガス測定ができない場合、成熟児には全身性チアノーゼを消失させるのに必要な最小限の濃度の酸素を投与してよいが、未熟児は測定可能な病院へ移送されるべきであり、酸素療法中は少なくとも二時間毎に酸素濃度を測定すべきであるとの趣旨の勧告をするに至った。

3 本症に関するわが国での研究と酸素療法の推移

(1) わが国では、昭和二四年に三井幸彦・鎌尾保(熊本医大眼科)らが文献1によりテリーの症例の内容を後水晶體繊維増殖症と訳して紹介するとともに臨床例を一例報告し、水川孝(徳島大医学部眼科)らが、昭和二九年に文献2により臨床例を4例紹介し、昭和三〇年に文献3により低酸素分圧(一五五mmHg)下での白ネズミの眼に対する影響についての観察実験により水晶体、網膜等に著名な病理的変化が認められるとの報告をなし、さらに、弘好文(北大小児科)が文献4により諸外国、特にアメリカで新生児の本症による盲目ないし視力障害の増加の事実と新生児の低酸素症の分析から酸素吸入の期間が長い程、本症の発生頻度が高いとの指摘と酸素吸入の段階的な切り換えとその際の眼底検査の必要性を主張するなどしたものの、未熟児の看護保育技術が遅れ、高濃度の酸素環境下での保育が実施されていなかったことなどのため、症例の多発もなく、本症への関心も薄かった。

(2) ところで、植村恭夫は、昭和三九年に文献21により、次いで昭和四〇年に文献22により、いずれも症例報告とともに新生児、特に未熟児の定期的な眼底検査の必要性を訴え(その後も、文献25ないし28、31、34、39、42等により主張)、昭和四〇年に小児疾患の専門病院である国立小児病院が設立されるに至り、ようやく本症への関心も高まり、その発生原因や未熟児保育に関する酸素投与法に関する研究者の論文も順次発表されるに至った。

(3) 日本産科婦人科学会新生児委員会は、昭和四一年一一月発行の文献29において、保育器内で長時間酸素吸入をするときは酸素濃度を四〇パーセント以下におさえてやらねばならず、そのためには正確な酸素濃度測定器で保育器中の酸素流量と濃度を定期的に測る必要があるが、酸素濃度制限は、チアノーゼのない未熟児にむやみに長時間高濃度酸素の吸入をしないようにということで、未熟児にチアノーゼがあったり、分娩後の仮死蘇生術のときは四〇パーセント以上であっても差し支えないとの酸素投与の基準を示し、さらに、日本小児科学会新生児委員会は、昭和四三年五月、「未熟児管理に関する勧告」を発表し、右勧告において、具体的な酸素濃度の基準値は示さないものの、酸素投与は医師の指示によって行い、保育器内の酸素濃度は定期的に測定、記録されなければならないとされ、同年九月右勧告は文献38に掲載されたが、定評のある東大小児科治療指針でも、昭和四四年一二月発行の改訂第六版(文献48)では、チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対しても酸素を投与すべきか否かについては議論があり、一度、無酸素症に陥れば無酸素性脳障害や無酸素性脳出血を起こす可能性が考えられるので、ルーチンに酸素投与を行うこともあるがこの場合は、三〇パーセント以下にとどめる旨を、さらに、昭和四九年七月発行の改訂第七版(文献93)では、低出生体重児にルーチンに酸素投与を行ってはならない、酸素は全身のチアノーゼや呼吸障害がある場合にのみ投与する、酸素投与が必要かどうかは医師が判断し、医師の指示によって酸素を投与する、保育器内の酸素はチアノーゼを消失させる最低濃度に維持する、高濃度の酸素投与中は、できれば動脈血のPO2を測定し、六〇ないし八〇mmHgになるように酸素を与え、一〇〇mmHgを超えないように注意する、眼科医に定期的に眼底検査をしてもらう旨記載されていた。関西医科大学の岩瀬帥子らは、昭和四五年二月、文献49により米国における酸素濃度制限から高酸素濃度療法への治療の推移傾向を指摘したうえ、小児科・眼科の提携による酸素療法(流量は毎分一ないし二リットル、濃度は最高値四二パーセント、最低値二一パーセント)の実践結果を発表し、昭和四二年三月から翌四四年四月までの間に観察対象とした未熟児一八〇例中一七例(9.44パーセント)に本症が発生し、うち一六例が二〇〇〇グラム以下の未熟児で、ほとんどの症例は制限の四〇パーセント以内で、酸素投与を行っていない少数例においても本症の発生がみられる旨を、さらに、昭和四七年六月、文献72により、現在まで本症と診断された四六例(一一パーセント)のうち、二例は酸素投与を全く行わなかったもので、本症の絶対条件として網膜の未熟性、ことに網膜血管の形態的な未熟が強調される旨を、九州大学の大島健司らも、昭和四六年九月発行の文献61において、生下時体重二五〇〇グラム以下で全く酸素の補給を受けなかったにもかかわらず瘢痕期病変を示す症例が一二例あり、その半数が高度の病変である旨各指摘していた。また、奥山和男(国立小児病院小児内科)は、昭和四七年六月に発行された文献73において、本症の発生には網膜の未熟性が重大な要因であり、環境酸素濃度でなく動脈血のPO2が関係していることが明らかにされたから、環境酸素濃度が四〇パーセント以下でも必ずしも安全でなく、呼吸障害を有する未熟児に対して四〇パーセント以上の高濃度の酸素を与えても動脈血中のPO2は上昇しないことも少なくなく、動脈血中のPO2がどれくらいまで上昇すれば網膜を傷害するかは知られていない旨を指摘し、武田佳彦(岡山大学産婦人科学)は、昭和四九年九月に発行された文献98において、酸素投与の適否について、低酸素症については肺機能の未熟性に加えて、中枢機能の低下もあり、効果的な酸素供給は必ずしも容易ではなく、しかも過剰投与による酸素中毒の問題もあり、酸素不足による障害と副作用という二律背反の結果に対する根本的な解決方法は現在なお確立されていないと述べ、馬場一雄(日本大学小児科)は、昭和四九年九月に発行された文献100において、本症を完全予防することは現状では不可能といってよい旨主張し、山内逸郎(国立岡山病院小児科)は、昭和五〇年一月に発行された文献103において、未熟児の酸素療法における持続的監視法としての経皮的酸素分圧測定法を実施した結果、ある酸素濃度について、どの未熟児も同じ反応を示すわけでもなく、呼吸運動の如何によっても直ちに血中PO2の値は変動し、特に無呼吸発作を繰り返す時において著しいことを指摘し、山本節(兵庫県立こども病院眼科)も、昭和五〇年四月に発行された文献111において、右測定法を取り上げ、数分間でも呼吸の不安定な未熟児のPO2の値は一〇〇mmHg前後から一〇ないし三〇mmHg以下まで何度も変動するとされるから、無呼吸発作時などにPO2を一日数回測定したとしても全く意味がないとの意見を表明し、未熟児保育における酸素管理の困難さを指摘していた。そして、後記の四九年度研究班報告後の昭和五一年八月三一日、日本小児科学会新生児委員会は、本症の第一原因が網膜の未熟性にあることは周知であるが、未熟児に対する高濃度酸素の長期間連続投与が本症を高める要因との指摘があり、未熟児への酸素投与の理想的基準として、低酸素血症を伴う未熟児に酸素を投与するのは、動脈血酸素分圧が六〇ないし八〇mmHgに保たれるようにする、吸入気体の酸素濃度も測定する旨の指針を作成・発表し、同年一二月に発行された文献142に掲載された。

4 本症の治療法」

7  同五一枚目表三行目の「副腎ホルモン」を「副腎皮質ホルモン」と改め、同九行目冒頭から同五二枚目表一行目までを次のとおり改める。

「(1) 光凝固法は、もともとドイツのシュビケラーが考案し、増殖病巣の周辺網膜を光によって凝固することにより脈絡膜との間に癒着を生じさせ、成人の糖尿病性網膜剥離等の治療法として実施されていたものを、昭和四二年、よろづ相談所病院(以下「天理病院」という。)眼科の永田誠医師(以下「永田医師」という。)が、本症の活動期2期から3期に移行しつつある女児二人に実施してその進行を停止させた旨を同年秋の第二一回日本臨床眼科学会で報告し、翌四三年四月発行の文献36に掲載・発表されたことから本症の治療法として注目され、永田医師は同年一〇月の文献41でも発育途上の網膜に広範囲の人工的瘢痕を形成するため予後の経過観察の必要性を留保しつつも本症の有効な治療法となる可能性を示唆し、さらに、昭和四四年秋の第二三回日本臨床眼科学会でその後の実施例四例を含めた追加報告をし、併せて六例の治療経験から本症の重症病変の大部分は、適切な時期に光凝固を行えばその後の進行を停止させることができ、この治療法を全国規模で成功させるための病院内の体制や病院間の連絡の必要性を説いて翌四五年五月発行の文献52に掲載・発表され、昭和四五年一一月発行の文献54、昭和四六年六月発行の文献59、昭和四七年三月発行の文献68などにより本症の最も実際的な治療法として紹介するに至った。また、佐々木一之、山下由紀子(東北大眼科)は、昭和四五年一月ころに本症活動期3期の重症八例につき冷凍凝固療法を実施した結果、効果があった旨を報告し、昭和四七年三月発行の文献69にもその旨が掲載・発表された。

(2) 右永田医師や山下らの症例発表を受けて、全国各地の先駆的医療機関で本症に対する光凝固及び冷凍凝固の両凝固法(以下において、単に光凝固ないし光凝固法ということもある。)の追試の機運が生じ、昭和四四年ころから名鉄病院で、昭和四五年一月ころから九州大学、名古屋市立大、東北大学で、同年三月ころから県立広島病院で、同年五月ころから兵庫県立こども病院で、同年七月ころから国立大村病院で、昭和四六年から鳥取大学で、本症に光凝固が実施されるようになった。

すなわち、昭和四三年七月当時、文献37により光凝固法の着想は興味深いものの、症例が少なく、術後の観察期間も短いので本症の治療法としての価値の判定は今後の問題であるとの批評をした塚原勇(関西医大眼科)は、昭和四五年秋の第二四回日本臨床眼科学会において、上原雅美、服部吉幸らと関西医大未熟児センターでの実施例五例八眼(両眼三例と片眼二例、そのうち両眼有効二例、片眼有効一例、両眼無効一例)についての共同報告により、光凝固法は適当な時期に行えば本症の病勢進展阻止に極めて有効であり、本症は2期までは自然寛解を待ち、2期から3期に入る傾向を認めれば速やかに光凝固を行うべき旨を提唱し、翌四六年四月発行の文献58にその旨が掲載・発表され、大島健司(九大眼科)ら六名も、第四一回九州眼科学会において、昭和四五年一月から一二月までの九大附属病院および国立福岡中央病院の未熟児室での実施例二三例(活動期3期の二一例は著効、片眼活動期3期、他眼活動期4期の一例は片眼著効で他眼不良、活動期4期の一例は不良)についての共同報告をし、昭和四六年九月発行の文献61にその旨が掲載・発表され、大島健司は、昭和四七年六月発行の文献74において、光凝固が有効であることはその後の追試によっても確認されている旨述べており、また、田邊吉彦(名鉄病院眼科)らも昭和四六年一一月発行の文献64や昭和四七年五月発行の文献70において、実施例二三例四六眼(2期までの二〇例に著効、3期ないし5期の三例のうち一例は瘢痕期二度に回復、二例は無効)の報告をし、本症は活動期2期の初期までに光凝固を行えば、ほぼ確実に治癒させることができる旨を述べ、本多繁昭(国立大村病院眼科)も、本症三〇例のうち自然治癒した二〇例を除いた一〇例二〇眼に光凝固または冷凍凝固を実施し、本症の進行を停止治癒できたとの臨床報告をし、昭和四七年一月発行の文献66にその旨が掲載・発表され、田渕昭雄(兵庫県立こども病院眼科、神大眼科)、山本節外三名は第二五回日本臨床眼科学会において、昭和四五年五月から同四六年八月までの兵庫県立こども病院に収容された未熟児のうち、本症活動期2期以上の進行をきたした一六例中一〇例の実施例の結果(八例は進行を阻止)を報告し、昭和四七年七月発行の文献75にその旨掲載・発表され、野間昌博(県立広島病院)も昭和四六年に実施例の報告発表を行い、その後、シュビケラーの下で光凝固法の技術を習得した坂上英(京大)が昭和四八年八月発行の文献81において、本症に対する光凝固の適応は永田医師が開発し、従来的確な治療法を欠いていた本症の治療に大きな光明をもたらし、今後さらにその発展が望まれる領域との指摘をなし、馬嶋昭生(名古屋市立大眼科)は、昭和四九年二月発行の文献89において実施例一八例三六眼のうち二八眼の視力保存に成功した旨を発表し、同年九月発行の文献95において光凝固法は局所療法として画期的な発見であり、本症の治療の第一の選択として行うべきすぐれた方法であると信ずると評価しており、これらの追試結果は、いずれも本症に光凝固を適期に実施すれば良好な結果が得られると積極的な評価を与えていた。

(3) また、植村恭夫も、昭和四五年一二月発行の文献57において、同年三月ウィルマー研究所を訪問した際、パッツも本症に光凝固を施行し、現在最も有望な方法であると述べ、わが国でも最近各地で治験例が出されており、光凝固法の開発により、本症は早期に発見すれば、失明をださずにすむことがほぼ確実となり、麻酔医、産科医、小児科医、眼科医の密なる連携を作るよう努力すべき旨主張し、その後の昭和四六年一一月発行の文献63では、本症の確実な予防法あるいは治療法はないとしたうえで、活動期初期(1、2期)の手術療法として光凝固法を取り上げており、さらに、昭和四八年八月発行の文献82において、本症の治療法としては、現在の時点においては光凝固・冷凍凝固が有効であることは確認されたようであると述べ、奥山和男(国立小児病院小児内科)も、昭和四六年一〇月発行の文献62、同年一一月発行の文献65や昭和四七年六月発行の文献73において、光凝固法が有効な治療法であることが各施設で確認されたが、極めて短い適期を逃さず治療することが予後を左右するので、未熟児の管理に眼科医の関与が必要と主張し、秋山明基(横浜市立大眼科)も昭和四九年九月発行の文献96において、本症に最も有効な治療法は光凝固法であるが、発症後数日にして滲出性変化を起こして網膜剥離に進む場合もあり、その実施時期に慎重な考慮が必要との指摘をなしていた。

(4) さらに、第二三回日本臨床眼科学会の来賓として来日したコンバーグ博士から光凝固装置の使用方法についての技術習得を目的とする光凝固研究会主宰による講習会が、昭和四四年一〇月二七日から二九日までの三日間開催され、その内容の報告が昭和四五年二月に発行された文献50に掲載・発表された。

(5) これに対して、もともと本症には自然治癒する症例が多く(その割合については諸説があるが、昭和四六年四月発行された文献58では、上原雅美らは87.5パーセント、昭和五一年三月発行された文献124によれば馬嶋昭生は七五ないし八〇パーセント以上としている。)、光凝固や冷凍凝固による治療に肯定的な見解においても凝固の時期、部位等が必ずしも一定せず、体系書や論文等においても、昭和四五年一一月発行の文献56、昭和四六年八月発行の文献60、昭和四八年二月発行の文献79など本症の治療法として取り上げていなかったり、昭和四三年七月発行の前記文献37(塚原勇)、昭和四六年一一月発行の文献63(植村恭夫)、昭和四八年九月発行の文献84(蒲生逸夫)、同年一二月発行の文献86(島田信宏)などでは本症の治療法の一つとして紹介されているものの光凝固の適応、治療施行時期、凝固部位や治療方法については具体的な記載のないものが多く、また、昭和四五年二月発行の文献49(岩瀬帥子ら)のように光凝固法による症例経験がない以上その価値を論ずることはできないとして治療法としての採用に慎重な立場や昭和四七年一月発行の前記文献66(本多繁昭)のように鋸状縁より網膜周辺部は硝子体の構造からも重要なところであり凝固例がどのような経過をとるかは今後に残された問題である、同年六月発行の前記文献74(大島健司)のように光凝固の時機を逸することを懸念して、自然治癒の可能性あるものまで、本法を実施することも起こりかねない、同年七月発行の文献75や同年九月発行の文献76の田渕昭雄(兵庫県立こども病院眼科)らのように光凝固や冷凍凝固は網膜の一部に損傷を残して治癒させるから本症の根本的予防、治療という点からは程遠く、網膜の器質的変化をきたさない治療をさらに検討する必要がある等と指摘する立場もあり、具体的な症例報告でも、昭和四八年七月発行の文献80の国立習志野病院における実施例三例(活動期4期の一例は無効、活動期3期の一例は瘢痕期三度に回復、活動期2、3期の一例は右眼を光凝固、左眼を冷凍凝固し経過観察中)のように光凝固の実施が有効たりうることを裏付けるとはにわかに言いがたい報告や昭和四五、六年以降、本症についてオーエンスの分類のように段階的な臨床経過をとらずに病変が急激に進行する激症型(Ⅱ型)の存在も確認されるに至り、従前の成功例が自然治癒傾向の強いⅠ型に光凝固を施行したにすぎないとの意見もあらわれた。」

8  同五二枚目表二行目の「(3)」を「(6)」と改め、同裏二行目から同八行目までを次のとおり改める。

「(7) 右のように本症の診断、治療面において医師の間の基準に統一を欠き、社会的混乱を招いていたことから、厚生省は、本症の対策を講じることとなり、植村恭夫(当時、慶応大学医学部眼科教授)を主任研究者とし、本症の主だった眼科研究者(塚原勇関西医科大学眼科教授、永田誠天理病院眼科部長、馬嶋昭生名古屋市立大学眼科教授、松尾信彦岡山大学医学部眼科教授、大島健司福岡大学医学部眼科助教授、山下由紀子東北大学医学部眼科講師、森実秀子国立小児病院眼科医長)、新生児医療の研究に卓越した小児科、産科の研究者(山内逸郎国立岡山病院小児科医長、奥山和男昭和大学医学部小児科教授、松山栄吉厚生年金病院産婦人科部長)、視覚障害児の実態と指導の開発の権威者(原田政美東京都心身障害者福祉センター所長)ら一二名で構成する昭和四九年度研究班が組織されて本症の診断及び治療基準に関する研究がなされ、当時における研究成果を整理し、翌五〇年三月以下の骨子の研究報告が提出され、同年八月に公刊された日本の眼科四六巻八号に掲載され、植村恭夫も同年五月の第一三回北日本眼科学会での特別講演において報告し(文献114参照)、右報告内容は同年一〇月の文献118にも掲載された。」

9  同五三枚目表九行目の「迂極怒張」を「迂曲怒張」と改め、同五七枚目裏三行目から同七行目末尾までを次のとおり改める。

「(8) その後、瀬戸川朝一(鳥取大学眼科)らは、昭和五〇年一月、文献104において、昭和四五年三月から昭和四九年六月までの本症一四例中の光凝固療法の実施例五例(七眼。うち活動期3a期三例四眼は一回の施術により著効、活動期3c期一例は右眼二回の施術により全剥離、左眼三回の施術により瘢痕期2c期となり、活動期4期の一眼を三回施術し、全剥離)の結果を、幸塚悠一(松山赤十字病院眼科)らは、昭和五〇年二月、文献105において、昭和四六年一月から昭和四九年八月末までの本症三六例中一三例に実施し、凝固を数回繰り返したものもある旨を各報告し、鶴岡祥彦(天理病院眼科)は、昭和五〇年三月、文献108において、Ⅰ型はその進行が比較的緩徐で十分な時間的余裕をもって観察をつづけ的確に治療時期を判定することはかならずしも困難ではないが、Ⅱ型はその進行がきわめて急速で突然網膜剥離を起こしてくるので診断、治療時期の判断に関してはⅠ型と異なる注意が必要である旨を指摘し、菅謙治(大阪市立北野病院眼科)らは、同年六月、文献115において、実施例四例五眼(境界線近くの無血管帯一眼有効、その余の新生血管や境界線から離れた無血管帯等の凝固四眼は無効)の結果を報告し、三井幸彦(徳島大学眼科)は、同年九月、文献117で、本症への光凝固法の適応はまだ未解決の問題が多く、日本ではかなり使われているが、その最終的効果(副作用)は未定と主張していた。昭和五一年には、松村忠樹(関西医大小児科)らが、厚生省の昭和五一年度小児環境研究班として九例のⅡ型網膜症の眼底所見と発症の背景に関する検討を行い、文献120により結果報告がなされたが、同年一月、前記四九年度研究班報告の共同研究員であった森実秀子が文献121において曖昧なままであった予後不良のⅡ型(激症型)の眼底所見の特徴を指摘して診断基準を明確にし、馬嶋昭生(名古屋市立大学眼科)らは、文献122において、昭和四七年六月以降の本症二五例を片眼光凝固の結果、比較可能な一二例では他眼と本症の進行に左右の差はなく、うち二例は他眼も本症が進行したためともに光凝固し瘢痕期一度で進行停止させ、残りの一〇例は凝固眼・非凝固眼とも瘢痕期一度であった旨を報告し、さらに、馬嶋昭生は、昭和五一年三月、文献124において、右片眼凝固の結果に触れると共に、光凝固法などの治療によっても、失明から救い得ない症例があり、とくにⅡ型では、われわれ眼科医の必死の努力によっても失明に至る症例が多い旨を指摘し、文献126で、光凝固や冷凍凝固による治療は、本症の進行を止めるのが主目的であって、その代償として網膜脈絡に大なり小なりの損傷を残し、万能でなく、未熟児出生の防止こそが本症の根本的対策である旨を強調し、三井幸彦は、同年八月、文献131で、本症に有効であろうということが主としてわが国で研究・検討されているが、本症に対し本当に有効であるかどうかはまだ研究中に属すると主張し、清水弘一(群馬大学眼科)らも、昭和五二年一〇月、文献153で、網膜・脈絡膜・強膜の相互間の位置関係を固定することにより、将来大きな問題の生じる可能性が強く危惧される、乳児への光凝固は原則的に好ましいものではなく、本症による失明を免れるための緊急避難と考えられるべきと指摘するなどしていた。そして、これらの研究成果を踏まえて、昭和五七年、右研究員であった植村恭夫外四名の眼科医により活動期の診断基準が再検討され、翌五八年九月に文献205が公刊されたが、その主たる改正点は、Ⅰ型については、1期を網膜内血管新生期、4期を部分的網膜剥離期と名称変更したうえその説明を変更し、3期を初期、中期、後期に区分して各期の説明を付加し、Ⅱ型についてはその説明を改め、混合型を廃止して中間型と改めることにあった。さらに、被控訴人誠子出生後も、Ⅱ型についての光凝固の適応の有無については争いがあるものの右四九年度研究班報告の治療の適応がⅠ型に限らず、Ⅱ型にまで及ぶことを完全に否定するまでの結果報告はなされていない。」

10  同五七枚目裏八行目の「(6)」を「(9)」と、同一〇行目の「いた」を「おり、苗村医師は、昭和五三年三月二九、三〇日に開催された国立小児病院での救急医療講習会にも出席・受講して本症の内容や早期の眼底検査の必要性を認識していたうえ、呉病院では未熟児は原則として生後約三週間程度経過すれば小児科の医師の判断で眼底検査を依頼し、眼科外来診療室で受診することにもなっていた」と、同五八枚目表一〇行目の「広島」から同末行の「掲載された」までを「昭和五二年二月発行の文献146に掲載・発表された」と、それぞれ改める。

二責任

1  医師の注意義務と医療水準

医師は人の生命及び健康を管理すべき業務に従事するものであるから、その業務の性質に照らし、危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのであって、右注意義務の基準となるのは、診察当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であるというべきであるが、右医療水準は当該医師の専門分野、医療機関の性格、当該医療機関の存在する地域における医療に関する地域的特性等の諸事情を勘案して決定されるべきものである。すなわち、右水準は相応の能力を備えた医師が自己研鑽に努めることを前提としたあるべき医療水準をいうのであって、単なる平均的医師が現に行う医療慣行とは異なるというべきところ、前記三に認定のとおり、治療の効果と安全性が権威ある相当数の医師による追試等でも一応確認されて専門的医療機関において治療行為として実施されていたのであるから、未熟児の養育医療機関である呉病院の担当医にとって、被控訴人誠子が呉病院に入院した昭和五三年八月当時、前記四九年度研究班報告の内容に従い早期の眼底検査を実施し、光凝固法による治療を行うことは医療水準となっていたと認めるのが相当である。

2  まず、呉病院の酸素管理の内容をみるに、被控訴人誠子は、生下時体重一一四〇グラム、在胎週数二九週の極小未熟児であって、出生時第一度の仮死、全身チアノーゼで三〇分後にようやく啼泣し、一分間に五〇ないし六〇の不規則呼吸があり、心拍数一一四回、体温32.4度の低体温のため、保育器に入れられたまま、八月一九日、呉病院に転送されて入院したものであって、その後投与された酸素濃度と酸素流量等からみれば、当時の臨床医学の実践における医療水準に照らし医師に委ねられた裁量の範囲内であって、これを逸脱するような不合理な点は見当たらないから、呉病院の担当医にこの点に関する義務違反はない。

3  次に、被控訴人誠子は、右のとおりの呼吸障害を有する重篤な極小未熟児であって、入院後は直ちに保育器に収容され、酸素投与が続けられていたのであるから、呉病院の担当医としては、本症の発生を予測し、四九年度研究班報告に示されたように生後三週以降三か月までの間に週一回の定期的眼底検査を施行し、本症の発症を認めた場合は必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を施行して本症活動期の病変を把握し、適切な時期に光凝固・冷凍凝固法による治療を施行すべき業務上の注意義務があったものといわなければならない。しかるに、呉病院の担当医は一二月五日、生後一一〇日に初めて被控訴人誠子の眼底検査を実施したのみで、それまで眼底検査を一回も行わなかったことから、被控訴人誠子は本症に対する適切な治療を受ける機会を与えられないまま失明するに至ったものというべく、右担当医は右業務上の注意義務を怠ったといわざるをえない。

4  右の点に関し、控訴人は未熟児に対する眼底検査は有効な治療法の存在を前提とし、被控訴人誠子の入院当時、光凝固法は有効な治療法として確立されておらず、他に本症に有効な治療法もなかったから、被控訴人誠子に眼底検査を実施しなかったとしても、義務違反が成立する余地はない旨主張するところ、前記認定事実によれば、被控訴人誠子の右入院当時、光凝固法は有効な治療法として取り扱われていたと認めることができるから、控訴人の右主張は採用できない(その後、光凝固法の評価はかなり低下しているものの、その有効性が否定されるには至っていない。)。

5  さらに、控訴人は被控訴人誠子がウィルソン・ミキティ症候群に罹患するなど全身状態が悪く、眼底検査や光凝固の実施はできなかった旨の主張をなし、原審証人苗村政子、同荒光義美、当審証人山本節、同中村肇の各証言及び鑑定人西村和彦の鑑定結果にはこれに沿う供述ないし意見があるところ、前掲〈書証番号略〉に原審証人苗村政子の証言によると、右症候群は在胎三二週以下、通常、出生体重一五〇〇グラム以下の未熟児で、生後一か月の間に徐々に出現する呼吸困難、多呼吸、陥没呼吸及びチアノーゼによって特徴づけられる未熟児の肺症候群の一種をいうところ、既に認定したとおり、九月二二日に被控訴人誠子の臨床症状に著変がないとして酸素投与が中止され、その後、同月二五日には眼科の受診が指示され、その後、一〇月七日、陥没呼吸の改善傾向が見られないとして胸部X線検査がなされており、被控訴人誠子の従前の診療経過や酸素濃度(従前は三〇パーセントを超えていたものが九月一二日から二〇パーセント台に引下げられていた)に伴う全身状態(中止日にはチアノーゼが発現せず)からみて右酸素投与中止日である九月二二日から右X線検査日である一〇月七日までの比較的全身状態が安定していた期間に眼底検査及び光凝固法の実施は可能であったというべきであり、これに反する前記各証拠は採用しがたい。

6  なお、控訴人の眼底検査や往診依頼の実施不能やⅡ型罹患による光凝固法の不奏功の主張についての判断は、原判決六一枚目裏六行目から六二枚目表九行目までのとおりであるからこれを引用する(但し、同六一枚目裏九行目の「(6)」を「(9)」と改める。)。

三損害

この点に関する当裁判所の判断は、以下に付加、訂正する以外は原判決の理由説示のとおりである(原判決六二枚目裏五行目から同六四枚目裏末行まで)から、これを引用する。

1  同六三枚目表末行の「一五〇〇円」を「二〇〇〇円」と改め、同裏二行目の「付添看護費用は一七一八万六四〇八円となる。」を次のとおり改める。

「付添看護費用は次式のとおり二二九一万五二一一円となる。

2000×365×31.3907=22915211 」

2  同六三枚目裏末行から同六四枚目表一行目までを次のとおり改める。

「   (四) 素因等による減額

① ところで、被控訴人誠子のような極小未熟児は、保育器に収容し、酸素投与してもその生存率は極めて低く、辛うじて生存しえた場合であっても脳性小児麻痺に罹患する蓋然性が高く、しかも、酸素を与え過ぎると本症に罹患して失明する虞れもあるところ、このような極小未熟児の診療を引き受けた医師としては、まず何よりも生命維持に努める義務を負い、次に脳障害の防止義務、さらには本症による失明防止義務を負うのであって、生命及び脳障害の虞れがある以上徒に酸素投与の濃度を減量しあるいは中止することはできないところである。

本件についてみると、被控訴人誠子は昭和五三年八月一八日午後四時二三分広島県豊田郡木江町の竹本医院において出生したが、生下時体重一一四〇グラム、在胎週数二九週の極小未熟児であって、出生時第一度の仮死、全身チアノーゼで三〇分後に漸く啼泣し、その後も不規則呼吸があり、心拍促拍、低体温の状態が続いているため、保育器に収容され、酸素投与を受け、翌一九日午後一時三〇分呉病院小児科に転院してきたものである。

被控訴人誠子は、呉病院小児科へ転院後も全身チアノーゼ、頻回の無呼吸発作、陥没呼吸が持続したため、保育器に収容され、保育器内の温度、湿度を一定に保ち、酸素濃度は必要最小限度に設定し、症状に応じて、三〇パーセントないし二五パーセントに下げ、九月二二日(三五病日)から一〇月六日までの間は比較的全身状態が良好と認められたので、酸素投与を中止するなど、過剰投与とならないよう適宜調整しながら、酸素投与が継続されている。

一〇月七日(五一病日)には呼吸不規則、時折軽度の陥没呼吸が認められ、胸部X線検査にて左上肺野に索状陰影が認められたため、ウィルソン・ミキティ症候群に罹患している疑いがもたれ、酸素投与を開始したが、一〇月一九日以後一二月五日まで酸素投与を中止し、経過を観察している。

その後、被控訴人誠子は、気管内分泌物の多量の排泄による陥没呼吸、腹部膨満、不規則呼吸が持続して症状の軽減がないため、一〇月二七日再度胸部X線検査を行い両上肺野に粗大網状陰影と小結節粒状影が認められ、ウィルソン・ミキティ症候群と診断されている。

被控訴人誠子は、ステロイドホルモンの投与により、気管内分泌物や陥没呼吸は軽減してきたが、一一月一三日(八七病日)の胸部X線検査では肺野に粗い索状陰影と下肺野(肺気腫状)が認められ、ウィルソン・ミキティ症候群の特徴ある肺所見が認められている。

なお、被控訴人誠子は、一二月五日眼科外来で受診後、体調不良のため一二月六日から同月九日までの間酸素投与を受けている。

したがって、被控訴人誠子は比較的全身状態が良好とされる時期には、酸素投与は中止されているが、ウィルソン・ミキティ症候群に罹患している疑いが生じてからは、再び酸素投与を再開せざるを得ない事情もあって、全体として酸素投与の期間の長期化は避け得なかったものと認められ、酸素投与を継続する期間中も酸素濃度を最小限度に制限していることが認められるから、仮に被控訴人誠子の眼底検査が施行され、本症の発生あるいは悪化が懸念されたとしても、酸素投与の濃度を減量しあるいは中止しえたか否かは疑問であったといわざるをえない。

②  また、極小未熟児に対する眼底検査の時期は、生後三週以降において定期的に週一回施行し、発症を認めたら隔日または毎日眼底検査を施行し、その経過を観察することが必要であるとされているところであるが、被控訴人誠子の全身状態からみて、眼底検査の適期に施行するにはかなりの困難性と危険性が予想され、被控訴人誠子の全身状態が比較的良好と認められた時期は、九月二二日以降であって、生後三五日を経過しており、眼底検査の適期をかなり過ぎていたことからみて、その時期になって本症の病変を的確に把握しえたか否か疑問である。

さらに、光凝固療法の適期は、生後五〇日(生後三四日プラス本症発生から治療までの期間一六日)が限度で、それ以降であれば、網膜剥離は避けられないといわれているところ、被控訴人誠子の全身状態が比較的良好とされた時期は、九月二二日以降一〇月七日ころまでであるから、適切な時期に光凝固療法を施行しえたかどうかも疑問であり、極小未熟児に対する眼底検査の困難性と光凝固療法の不確実性とを考慮すると、光凝固療法を施行したとしても、失明を免れえなかった可能性を否定することはできないところである。

③  本症は、酸素投与しない場合であっても、発症した例が報告されていて、その発生機序は現在においても明らかにされていないが、被控訴人誠子の本症は、同人が極小未熟児として出生し、その網膜の未熟性という要因と生命維持のためやや長期間にわたり継続された酸素療法とが重なって発症したものであることは否定しがたいところである。

④  したがって、失明の直接の結果は、被控訴人誠子が極小未熟児であったことと医師が酸素投与の期間中眼底検査を怠り、本症に対する適切な治療を受ける機会を失わしめた過失とが競合して発生したものというべきである。

そうすると、被控訴人誠子の失明による損害については、過失相殺の規定を類推適用し、それぞれの原因の寄与の度合いに応じて双方に負担させることが損害賠償制度の基本にある公平の原則の法理にも合致し、相当であると考える。

以上、本件に顕れた一切の事情を斟酌すると、その五割の減額を認めるのが相当である。

そうすると、右一ないし三の合計五二六七万四〇七六円の五割は二六三三万七〇三八円となる。

(五) 損益相殺

控訴人は、被控訴人誠子の失明により被控訴人らに支給された特別児童扶養手当法に基づく特別児童扶養手当、障害児福祉手当の控除を主張するところ、当審における調査嘱託の結果によれば、控訴人らは、被控訴人誠子が未熟児網膜症により両眼を失明し、右各手当の支給を受けており、その受給金額は平成五年一月一一日現在で特別児童扶養手当が合計六二一万六五八〇円であり、同月六日現在で障害児福祉手当が合計九五万七八二〇円、また、平成五年一月における各手当額は特別児童扶養手当が月額四万六三九〇円、障害児福祉手当が月額一万三一八〇円であることが認められる。

ところで、特別児童扶養手当法によれば、特別児童扶養手当の支給は毎年四月、八月及び一二月の三期にその前月分までを支払い(同法五条の二参照)、障害児福祉手当の支給は毎年二月、五月、八月及び一一月の四期にその前月分までを支払う(同法一九条の二参照)から、前記既払額は特別児童扶養手当が平成四年一一月分まで、障害児福祉手当が平成四年一〇月分までとなり、その後、本件口頭弁論終結時である平成五年五月二〇日までに給付が確定した金額は、平成五年一月における各手当額を基準とすれば、次式のとおり特別児童扶養手当が六四九万四九二〇円、障害児福祉手当が一〇五万〇〇八〇円、合計七五四万五〇〇〇円となる。

6216580+46390×6=6494920

957820+13180×7=1050080

そこで、右各手当控除の可否について検討するに、特別児童扶養手当及び障害児福祉手当合計七五四万五〇〇〇円はいずれも本訴請求にかかる逸失利益ないし付添看護費用と同一の性質を有し、相互補完の関係にあるから、これを被控訴人誠子の損害額から控除すべきである。

そうすると、被控訴人誠子の損害の残額は、一八七九万二〇三八円(逸失利益及び付添看護費用の残額一三七九万二〇三八円、慰謝料の残額五〇〇万円)となる。」

3  同六四枚目裏二行目の「諸般の事情」を「前記素因等による減額及び諸般の事情」と、同八、九行目の「五〇〇万円」を「一八〇万円」と、それぞれ改める。

四結論

以上によれば、被控訴人らの請求は、被控訴人誠子において二〇五九万二〇三八円及び内金一八七九万二〇三八円に対する不法行為後である昭和五三年一二月六日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で、被控訴人英幸、同克恵の請求は各一一〇万円及び各内金一〇〇万円に対する不法行為後である昭和五三年一二月六日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度でそれぞれ理由があるから認容し、その余を失当として棄却すべきところ、原判決中、被控訴人英幸、同克恵に関する部分は相当であるから控訴を棄却し、被控訴人誠子に関する部分は一部不当であるから控訴人の控訴に基づき右のとおり変更することとし、被控訴人らの附帯控訴はいずれも理由がないから棄却することとする。

第二控訴人の民事訴訟法一九八条二項に基づく申立(乙事件)について

ところで、控訴人は民事訴訟法一九八条二項に基づく申立(乙事件)をしているところ、その主張する事実関係は被控訴人らとの間で争いがなく、右のとおり原判決を変更すべきであるから、右変更の限度で原判決に付された仮執行宣言がその効力を失うこととなる。したがって、控訴人の申立は、右仮執行宣言に基づいて被控訴人らに給付した金員のうち、被控訴人誠子につき金四六七六万〇三八二円〔仮執行額七七六四万八六〇一円から元本二〇五九万二〇三八円と内金一八七九万二〇三八円に対する昭和五三年一二月六日から平成元年一一月一五日までの年五分の割合による遅延損害金一〇二八万四一三五円に執行費用一万二〇四六円(右執行費用額は原審と当審の各認容額に対応するものは同額である)の合計三〇八八万八二一九円を控除した残額〕及びこれに対する仮執行日の翌日である平成元年一一月一六日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で正当として認容すべきであり、その余は棄却すべきである。

第三まとめ

よって、民事訴訟法九六条、八九条、九二条、九三条、一九六条、一九八条二項を各適用して主文のとおり判決する(なお、主文第三項1については相当でないので仮執行宣言を付さないこととする。)。

(裁判長裁判官新海順次 裁判官古川行男 裁判官岡原剛)

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